テクスト論のない世界

テクスト論について考えていた。文学批評はいくつか読んだけど他の分野の批評に関心がなかったので、それを経由しない批評分野もあるとは知らなかった。だけどこれからも知ったところでどうするという感覚しかない。芸術や美術批評が外部をまったく必要としていないことはカオスラウンジ騒動の中で何回も強調された。部外者は関係ないと。わたしには語る資格さえない。語る前から意味がないことだけは確実だ。
文学部じゃない人はテクスト論を知らないのかもしれない。作者の考えていることを作者である父親に聞いたネタや、エヴァ本の解釈をガイナ社内で笑ってたというネタを笑うというのは素朴だ。作者の意図として発言されたものもパラテキストに過ぎない。
ゲーム批評という雑誌があったけどそれに相当するものも他の分野にはない。すべていわゆる御用評論家で何の疑問もない。批評する行為だけは経済から離れた純粋なものであるかのようだ。
今考えると黒瀬陽平の言説で言説でだまして売ればいいというのは本音で、唯一の思想と言っていい。クズを高く売ることによって作品よりも言説のほうに価値が出る。しかしその言説の根拠は高く売れたからというトートロジーに過ぎない。もしくは価値の源泉は村上隆と東を一時的にでもだませたという一点に還元されるのかもしれない。
本当に驚いたのはその仕掛けを公言した後もアウトサイダーアートっぽい高額なクズが平気で売れ、同じような内容を講演会で言い続けていることだ。ミダス王の指を思い起こさせる。もっとだましてくれ、だまし続けてくれという顧客層は某アイドルユニットのファンのようだ。
悪い場所とか言ってた頃より知的に衰退しているように部外者には見える。もっとも昔っからそうだったのかもしれない。アウトサイダーすぎてわからない。わからないままだろう。