死ぬ気やる気元気

死ぬ気になってできることって死ぬことだけじゃないだろうか。死ぬ気になればなんでもできる式の言い方は、死ぬくらいの強い意志でやれという精神論であって、しかし死ぬ気という個別具体的な欲望は、死ぬことのみに振り向けられる性質のものじゃなかろうか。
死ぬ気になる程の強い意志を持つことは自発的にしかなしえず、人から死ぬ気になれというのは死ねと言っているのと等しいんじゃないだろうか。
飲み屋の会長の話の巧みさは受け手にそういう話を受容する部分があってこそなんじゃないかと漠然と思った。異常に見える部分だけ切り取っても意味が無いきもする。