オタクとユダヤ人

エッセイの上手い下手ってのがよく考えるとわからない。良い文章や読みやすい文章なんかはあっても基準がよく分からない。
高校生の時担任の先生が教室に何冊かの文庫本をおいていて、自由に読んでくださいと言った。その中に日本人とユダヤ人があった。しばらくたってその本について知った後で私は何故その本を置くのか、嘘だと分かっているのに、というようなことを聞いたと思う。
まあエッセイとしてはいいので、というような答だったと思う。
東浩紀は最近動ポモへの批判に対して動物化するポストモダンは実証的なものではないと言った。彼は以前からそう言っている。オタクが意識においてどう考えているかはどうでもいい。とか。人間に興味が無い、など。
オタクってのは名指しされる人がいて、実態がある。同人誌を作り、買う人だ。しかし好き勝手言っていい対象らしい。
なので海賊版もトレパクもカオスラウンジも同人誌もみんな同じ二次創作ということを言い出す。二次創作同人誌を作っている人がトレパクを嫌うということを騒動で初めて知り、そしてそれは彼にとってどうでもいい。彼には今までオタクの知り合いが一人もいなかったらしい。
ユダヤ人の知り合いが一人もいないし一生会うこともない昭和の知識人にはいいエッセイで通用する鎖国状態があった。
きっとオタクもどうでもいい対象なのだろう。未だに大学でテキストとして使うバカ教授がいるというんだから。
江戸時代の人のものの考え方を読み物を通して考える、とかならまだいい。今現在生きている人を無視してエロゲやラノベの解釈をこねまわしてオタクはこう無意識に欲望している、深層においてこのようなデータベース消費をとかアホじゃなかろうか。
否定されればされるほど言い当てられたから反発している、だの瑣末な事実の間違いだの。
一体何の本なんだろう。