バクマン。におけるメタフィクションについて


バクマンがおもしろいのはベタなメタフィクションなところだ。少年漫画を書く者たちが、少年漫画の内容によくあるように戦い、友となり敵となり、勝ったり負けたりする。つまりは描いてるものが描いてる内容をそのまんま反映し、書くものが書かれるものに呼応し、類似を生きる。
ドクターマシリトで有名な鳥嶋氏が出たときにはサイコーとシュージンが漫画の中で漫画として改めて描かれる。ここではご丁寧にもう一段額縁が付け加えられている。
何故だろうか。
鳥嶋編集長が出るのはここが初めてではない。一巻に登場した漫画家の持ち込み原稿をシュレッダーにかけた編集者もたしかに似ているが、もっと明確に、一巻の最後のページを読むとすでに編集者としてその名が作者と並んでいる。この漫画の特性上、彼は大きな意味で作者、第三の作者だ。
作品における作者、神、ラスボスが登場するのだからもう一段額縁が要る、作品内作品を、バクマン内ジャンプを強調する必要がある、と思ってちょちょいと絵コンテにはなかった描写を付け加えた小畑健のセンスはすばらしい。
ドン・キホーテ前編を読んだという人物が登場するシーンを、ここにおいて書物は書物自身の上に折り返されると評した有名な言葉があるが、この見開きページで漫画は読者に向けて二層に見開かれる。漫画でだけ見たことがある人と実際に会う瞬間、サイコーとシュージンは漫画の登場人物になる。今ここで読者が、あなたが、漫画を読んでいるという現前性が強調される。これは漫画家を目指す(事も可能な)あなたの物語でもあるのだと特に年少の読者に語りかける。
別にこれ以降主人公たちが漫画の登場人物としての自覚を持つわけではないが、より一層漫画的な、急病や作家仲間のボイコットと言った展開にさらされる。メタレベルからオブジェクトレベルへの降下というわけではないが。
少年漫画とはいってもここではほぼジャンプしか扱われない。そしてほぼ全員がジャンプ中心主義とでもいうべき考えかた、生き方、価値観で話は進む。
私は漫画を多く読んだがジャンプの漫画はあまり読んでいない。全巻読んだことがあるのはたぶん10作ないと思う。デスノートも最終巻だけ読んでいない。なんとなく苦手だった。
それでも悪名高いジャンプシステムについては聞いたことがあった。徹底したアンケートと冷徹な打ち切りかた。この漫画ではわりと詳細に手の内が明かされている。
ジャンプシステムを批判するものはそれに対して暗黙のうちに人間的な漫画の扱いを、つまりは情がある打ち切り方や、利益が出ない連載を継続する雑誌や企業を理想として考えている。人気があるもので利益を出し、あまり売れないが内容はいい漫画、価値のある漫画を作品としての完成度を高めて世に問う。程度の差はあれどこの出版社でも、雑誌でも、そのようなやりかたをするものだ。漫画で儲けて売れない小説を出したり、ボーイズラブの本と社会思想の本を並べて売っていたり、アイドルがなんとかかんとかの本と人権問題の本を売ったり。(人権や左翼の本を出す出版社の多くは何故かよく従業員と経営者がもめている印象があるが、言ってることとやってることが違うから目立つだけなんだろうか)。
システムはそれに応じたスタイルの作品を要請する。中長期的な展望を立てにくく、アンケートの順位で方向性を決める。いつでもバトルと言うテコ入れを可能にしておき、その場その場でのアドホックな設定が付け加えられ、後から付け加えられたルールが事後的に遡って適応される。いわば言語ゲームのようにルールが事後的に決まる。勝ったからそういうルールだったことになり、負けたけど負けてない的な二重基準が後から付け足される。約束はしたが、約束を守るとは約束していないというような、後出しジャンケンがまかり通る。登場人物だけじゃなく、互いに矛盾しあう世界観さえも止揚せずバトルする。連続して一貫した作品としての統一性はなく、一貫してその回さえ面白ければそれでいいというような態度が、作品の基底や根拠を突き崩す。神や死と言った言葉が軽々しく独自の意味で使われる。人は死んでも生きていると日本の過半数の小学生が答えたアンケートが話題になったが、このメディア環境ではむべなるかな。
それはいつでも現在だけを、今この時だけよければどうでもいい態度を作者と読者に持たせる。微分で得られた導関数のみを評価し、極端なインフレをそういうものとして受け入れる。
次はもっと強く、面白く、激しくなる。ジャンプ漫画は予兆に満ちている。目標になるたとえば敵の数や戦闘力や人気ランキングが数字として掲げられ、ひとつずつクリアする。
それは常に引き伸ばされる。アニメ化されたものにおいても同様で、スポポビッチビーデルを倒す一頁のシーンは一話にわたって引き伸ばされて放送され、無抵抗な少女を大男が延々と20分以上殴り、蹴り続けた。
よく漫画やアニメについて書かれた文章で、たとえばエヴァけいおん!を主人公が成長しない、成長が足りない、訓練の描写が少ないといって、非難しているのがあるが、あれはおそらくジャンプ作品などを規範としたモデル批評じゃないだろうか。主人公が成長する物語が好きなのは構わないが、娯楽や作品にはほかにも種類がある。
震災の被災者にジャンプを差し入れたボランティアの意図がわからなかったが、今はなんとなくわかる。それより面白い、いい作品を差し入れればいいのにと思っていたが、あれは今その時読むことに意味がある作品だ。後で読んでは魅力が半減する。非日常的な日常の中で、日常的に読んでいた非日常のロマンを彼らが必要としているだろうという判断が正しかったのかどうかは分からない。親しい人や家族や普通の生活を失った中で死ね!だの殺せ!だのどうせドラゴンボールで生き返れるんだから気にするなだのなん…だとだのドン!だの犠牲になったのだだのいう漫画を読みたかったのかどうかはわからない。感想を聞いたことがないので被災者がどんな気持ちで読んだのか分からない。
昔ジャンプのアンケートは最初の百枚しか使われないから出しても無駄だと言っていた同級生がいた。こんな地方都市から葉書出しても意味がないと。この都市伝説の出所がバクマンでわかった。彼は速報という制度を勘違いしていたのだ。彼は選挙に投票に行くだろうか。どうせ無駄だからと行かないだろうか。
システムが要請するスタイルとは言ったがそれは読者が求めることでもある。読者はおそらくたった一種類の物語が好きなのだ。主人公がかっこよく戦って強くなる話。
アンケートは数字にすぎない。百万の小中学生の脳髄に電極が刺さった速度計、無意識の欲望を反映する温度計。
偏差値教育への批判のもっともばからしいものは、偏差値を出すことまで否定する極端な理想主義だ。偏差値がなかったころの受験は自分の相対的な位置も志望校の水準も分からないまま一発勝負で受験しなければならなかった。何年も浪費し、失敗し田舎に帰る秀才もいた。それに比べれば偏差値があったことでどれだけの人が救われたか。当たり前だが偏差値が、数字が悪いのではない。
映画についての映画は自己言及、映画の自意識だという哲学者の言葉が20年たってようやく邦訳が出た本にあって、その直後にアニメ監督が引用していて、さすが勉強熱心な人だなと感心した。それに倣うならば漫画の自意識が生まれたのはまんが道のころだろう。外国で日本漫画の描き方と言った類いの本がベストセラーになるのは、漫画が時系列を無視して一気に大量に輸入されたために、漫画をどう読むのか、どう書くのか、漫画とはそもそも何かを知りたい層が多いからではないだろうか。日本では頻繁に振り返り、内省されてきたことが、その契機がなかったためにそのリテラシーがないのではないだろうか。実際に漫画家になりたいんじゃなく。
そして自意識を持ったものは対象としてだけでなく、主体として遇することも可能ではないだろうか。バクマン。においては主人公がサイコーとシュージンからジャンプ漫画そのものにシフトしていないだろうか。
作者の興味は(デスノートでもそうだったが)人間じゃなくシステム、ルールとゲームにあるんじゃないか。
少年漫画誌上で漫画そのものがバトルする漫画として読むことも可能じゃないだろうか。