運勢の悪い画数

ある種の疑似科学は科学を僭称することがどうしても必要な本質なので、やめて宗教にしちゃえっていうのは無理だ。厄介な立ち位置だ。最近の報道や反論はいろいろ考えさせられる。せっかくの産む機械に自然出産だのお医者さんごっこなんて歩留まりの下がる贅沢は許さない、プロレタリアートには死産する権利もない、不景気なんで。まるでそう言っているようだ。馬鹿が馬鹿やって死ぬ自由さえ無い。
上岡龍太郎の番組で姓名判断の根拠として明らかに偏ったグラフを出した占い師がいた。縁起が悪い画数の人の寿命が明らかに短い。病気の人、交通事故にあった人、明らかな相関があった。
これはすごいな、と占いが大嫌いなことで有名な上岡龍太郎でさえ認めて、ひと盛り上がりあったあとで、ところで画数の揺れはどう処理したのか、たとえば草冠やしんにょうや、書き方、数え方で変わる場合はどうしたの、どの説を取る、っていうふうに決めてから数えたの?と聞くと、
死んだ人は運が悪いので悪くなるように取りました。
あほか。
もう数なんて数えなければいいのに。
私の名の画数が良いと近所のおじさんが褒めてくれたらしく、その人に(先日書いた話だ)テレアポで偶然電話したことがあった。子供の頃ああいう人はきっと相撲取りにカッコいい四字熟語を依頼されても即答できるんだろうな、と何となく思っていた。
怪談の最後になぜか出てくる霊感のある人、のように、そういう学のある事になっている近所の人、のようなポジションに憧れたことがあった。