笑いと理論、なぜ芸人だったら耳を出すのか

笑いそのものについて論じた哲学書を芸人が作り手の側から利用するとき、つまりプラグマティックに読み替え、書き換えるとき、理論化不可能な残余が残る。
芸人だったら耳を出せ(耳が見える髪型にしろ)という一見無根拠なアドバイスは笑いをとる、売れるためになすべき事の不可解さや神秘性を示しているようにも感じられる。
つまり作り手はテキストを持ち寄れるが意味を与えるのは読み手だから、どんなに精緻な理論でも不確定な部分がある。判断を最終的に他者に委ねるしかないからだ。
鉄板の笑いを用意しても昨日葬式だった観客は笑えないし、我が子の初舞台なら何をやっても笑う。
耳を出すことで観客に愛着を持ってもらえ、名前だけでも覚えて帰ってもらえるならそうすべきだ。根拠はない。そしてそれは笑ってもらうよりもある意味困難な、好きになってもらおうという方向だ。
だからファンを相手にライブを何回もやって稽古をするよりは、名前も知らない他者の前、アウェイで場数を踏んだ方が全体を把握しやすいだろう。
いくら完全には把握不能とはいっても確率として想定出来る読者層、観客層がいて、その想定読者にむかうやり方がある。実践的にはそれで十分だ。
ちょっと面倒なのが、想定された方もたいてい自分が偏差値50であるとは思いたがらないところで、わかりにくいけど分かる人には分かる、ぐらいの扱いを望んでいる。それを込みで考える。
つづくかもしれない。