計算された天然

ギャグとコメディは対概念として扱えるかもしれない。前回言った戦略と戦術、マクロとミクロ、といったスケールに関してだけじゃなく、内包と外延、帰納と演繹のような、対象にたいする逆の操作としても。
あるネタを引き伸ばすことで全編をコメディとすることも、語りを切断する切り口を見せるギャグとしてつかうことも可能かもしれない。
そして前々回言ったように人によって読み方は変わる。ギャグとして描いたものを設定と捉えたり、あるいはコメディを真剣に読んだり。
こんな痛い属性のキャラに萌えられないだろう、と作ったギャグマンガがラブコメとして受け取られたりする。
たとえばパロディは元ネタを知っている人にとっては笑える、あるいは分かるネタだけど、知らない人にはつまらない。わからないことがあってどうやらネタらしいと分かったり、それさえ気づけないものもある。
お年寄りがお年寄り向けのお笑いを見ているところを見ると、別段笑うわけじゃなく、ああ分かる分かる、の繰り返しであることに気づく。ネタとして成立している、このネタは分かった、というだけで、日の下に新しいものなどない。
尖ったネタと言ったとき、正規分布の端の方を思い起こす。そこにしか刺さらない、かつそこにしか分からないことによってネタとして成立する。

バクマンでシリアスな笑いをやりたいと言ったとき、それはある読者層を想定していて、反応をコントロール可能だと見ている。おそらくジャンプシステムの裏付けがあるからだろう。

それに対するネット上の反発は、本当に天然な女なんていないという女を思い起こさせる。天然を演じるなんてなんて腹黒い女。