ロックウェルと小松崎茂

10年くらい前、雑貨屋でノーマン・ロックウェルの額に入った大きな絵を見て、友人とこんな会話をしたことがあった。あの絵を買う人の家には和室はあるんだろうか。室内で靴は脱ぐんだろうか。何のつもりで自分の家に飾りたがるのだろうか。会話と言っても私が一方的にしゃべった。
たしかそのころダークエンジェルかなにかでロックウェルの絵を日本人から取り戻すエピソードをやっていた。
アメリカ人は国力が落ちるとロックウェルを取られるという強迫観念に取り付かれているようだ。高い城の男でもアメリカの骨董を買う日本人がいた。
ヨーロッパやアジアから美術を金で集めた反動だろうし、自国の文化への自意識過剰だ。
しかし実際にピカソを棺おけに入れて欲しいと言った日本人もいたし、自室にロックウェルを飾る人もいる。
あれを飾るくらいなら小松崎茂の絵を飾りたい、と私は言った。たしかその次の週には二人で南千住の小松崎茂美術館に行った。
戦争は嫌いだが兵器は美しいというメッセージがあった。
トゥナイト2で生前の小松崎茂を見たことがあった。資料無しで戦艦を書きあげていた。
戦後の風潮や教育は戦艦大和の絵を、戦争にまつわる一切を否定した。
一方で日本は戦争には負けたがなんとかかんとかでは勝っている、式の自意識を満足させる自己欺瞞は延々と続く。経済力で2位になったときにようやく落ち着いたのかもしれない。
一方で戦争に勝ったアメリカと自己を同一視したり、日本をどんな立場からか批判したりする。深刻な分裂。
戦前からの連続した価値観や文化を一部継続出来なかった。
軍事をアウトソーシングしている、もしくは属国、という状態の国家は、娯楽においても子供たちに単純に戦うことを強いることが出来ない。国家のため戦うことが善であるともいいきれない反体制な時代の精神性。負けたから悪い、のではなく悪い戦争をした、式の解釈。
なんのゆかりもない宇宙人が巨大化して戦ってくれる安保の暗喩。
話し合いで解決しようとしてえーいわからずやめといってしまう展開。

なぜロボットアニメばかり作るのかという単一の答えを出すことも完全に間違えることも難しい問いがあった。何を言ってもそれらしい理屈はつきそうだ。
とにかく子供向け娯楽では戦争は肯定的でも否定的でも描いちゃだめな空気のなかでロボットは未来に属するものなので大丈夫ということになったのだろう。
プロレスや特撮といった隣接分野も影響しただろう。
それは大きく、強くなりたい男の子の身体の延長だ。
子供だましがあきられてきたころ、戦争に見えるものは戦争だろうと、富野由悠季が開き直る。
もし一貫して小松崎茂が評価されているような日本だったなら、そんな紆余曲折も今のような形のロボットアニメもなかったかもしれない。