後天的に変えられない特徴を笑うこと

ドブス写真集を作ろうとした人が批判されている。私も批判されるべきだと思う。一方伊集院光のジャンクにデブとドブスがコンブリオと言うコーナーがあって、毎週聞いている。このコーナーはドブスに実際にはありえない、性欲や性別を超越したおっさんのようなキャラを付けたり、実際のブスを笑うのとは違うかのような工夫が一応ある。が、政治的に正しい人から見れば批判されるべきだろう。このコーナーはブス1グランプリもそうだったんだけど、あんまり好きじゃない。ブス1グランプリはそのコーナーだけ聞かなかった。
たまたま美術手帖を読んで帰ったら、法的、社会的にはだめだけど芸術として見ることは可能だろうという意見があって考えさせられた。その発想はなかったので。東京の街中でヌードを撮ることが最高裁で禁じられてこれからどうしよう、って特集もあったのに。
むしろお笑い、芸能の一部としてしか見ていなかった。ここにもお笑い至上主義があって、面白ければいい、という考えの人はいる。
芸術としても駄目だ、面白くないからお笑いとしても駄目だ、と評価することも、道徳的に批判することと同時にやるべきだろう。
笑いは自分を括弧に入れることで可能になったりする。自分は置いておいて他人を笑うことは、それ自体でも笑える。笑うときには一時的に超越的な視点を持つ。
後天的に変えられない特徴を笑うことは時に批判される。昔のギャグマンガやアニメはブスや貧乏人を笑ったりするものがあった。
整形技術が発達した現代が云々といっていたのでドブスを守る会の人はブスが直せるもので、好きでやってることだという考えなのかもしれない。