コミケの理念の不死性


去年の冬コミの開場直後の写真。私たちの向かいの六つのサークルはおそらく一度も客前に立つことなく、無料配布本を机に置いていた。私たちは二時には撤収したし私がいない時間もあったので全部を見れたわけではない。3×6で十八人、全員が開場と同時に行列し、「ファンネル」になり、おそらくは大量に本を買うんだろう。もしくは一日中コスプレ広場にいるのかも。
このサークルが次回出禁などのペナルティを受けるかというと、多分受けない。本は出しているんだから。

何年か前の館内の開場前行列ではスタッフが異常に頑張っていた。並び始めた人の目の前数センチで自分のサークルに帰ってください、と叫んでいた。
数分怒鳴られた人はその場を申し訳程度にうろうろして、また同じような場所に並ぶ。またスタッフが怒鳴る。それは開場まで続いた。並んでいる人たちの不愉快さや怒りが目にみえるようだった。
サークルスペースから見ていて、あんな事しちゃいかんだろうと思った。
その回には人波が机を倒す事故があった。
あれだけ人を怒らせたら「彼ら」がスタッフの言うことなんて聞くわけがないだろうな、と直感的に思った。因果関係が証明されているわけじゃないが、そんなふうに感じた。次の回からは大声がなくなった。

私たちはルールがあるとそのギリギリを狙う。なので無料配布本がどうこうでもないし、開場前行列がどうこうでもない。新たなルールを作れば、またそのほころびに群がるだろう。
開催そのものを危険にさらす徹夜も、残念なことに今のままでは今のままだろう。東京に戒厳令でも出れば別だけど。

コミケの理念とはいわゆる統製的理念なんじゃなかろうか。自由な表現の場なんて完全な実現は無理だ。著作権やわいせつや法的な問題や道徳的タブー。それでもそれを目指して全員が進む道しるべ。
許可を求めるのではなく謝罪する、という言葉を知って、何となく思った。同人作家が出版社に呼び出されて土下座させられたという話をよく聞く。それでも萎縮も、自粛もしない。

コミケの理念は死なない。もしくは死んでも生き返る。