おれも(盗用の)批判者もいずれ必ず死ぬ。だから批判は些細な問題で、作品が残ればそれでいい。
梅ラボの言葉の反響は大きかった。私もショックだった。
人は必ず死ぬ絶対死ぬ絶対死ぬ絶対死ぬ…と繰り返し言い続けるオウムの信者をテレビで見たことがある。死という絶対的なものを持ちだすと現世の全ては相対化される。そんなオウム信者でさえ対話を拒否しようとした時にドキュメンタリー監督に答えてくれないのか、君には利他心がないな、といわれると反応する。まだ仏教者としての矜持が残っている。
しかし現世との対話を拒否するアートの人に何を言うと伝わるだろう。なにしろカオスラウンジは利己的に振る舞い責任を取らないことを動物的と言い換え半笑いで肯定しあっている。東浩紀ポストモダン思想の影響下にあるからだ。利他心がないな、と言われたら大喜びで解説を始めそうだ。
映画の感想を書くのに時間がかかったのは何を書いても彼らには通じないという諦念で落ち込んでいたからだ。精神的にも完全にパトロン支配下にある。あの太い旦那さえいれば何をしても許される。
あの映画にはオウム真理教をテーマにしたドキュメンタリー映画のようになる可能性もあった。しかしそうはならなかった。
日本映画学校に何のコースがあるのか詳しくはないが、監督はきっとプロパガンダ映像を作るのに向いている。プルトニウムは飲んでも安全です、という映像を作るような仕事で将来も食っていけるだろう。ドキュメンタリーより需要が多い。
取材対象との距離感を欠いたなれあいによって、影響されたのかカオスラウンジと同じ事をやっている。それともドキュメンタリーだからまとめ画像や動画を無断で使ってもいいと思ったんだろうか。あれは引用の要件を満たしていない。けいおんのデザイナーに、京アニに、TBSに、同人作家になぜ取材しない。出来るのに。何故一方だけ取材する。何故一方だけの言い分を聞く。何故ドキュメンタリーを名乗る。
私はあのまとめ画像が作られる過程をスレで見てきたし、まとめ動画が上げられたあと動画製作者が石川宗に脅されて取り下げるところも見た。その後自腹で広告を打って上げ直したところも。それらに比べてなんて批評性の無さだろう。ちょいワルエピソードを彩る抗議する一部のオタクの例になっている。もちろんこの文章もそう扱われるのだろう。
そのむなしさが、不毛さがきつい。彼らには届かない。何を言っても。