性的抑圧と性的飢餓の違い

橋下の従軍慰安婦発言の擁護で東浩紀が青年の性処理は絶対に必要だと言っていて何が根拠なのかちょっと不思議だった。
ライヒの名前を知ったのは玄田生の漫画だった。大学の教育心理学でも聞いたんだけど。あの種のよくオカルトや俗流心理学に援用される理論もニューアカブームでは割と肯定的に扱われ、その知識の更新が無いままここまで来たのかもしれない。
絶対になきゃダメかというと別にそうでもない。なきゃないで別におかしくはない。自分でこすればただみたいなもんだし。むしろ絶対に自慰もダメと言う宗教的抑圧が精神には良くない。
そして女とどうこうなどより戦場なり戦時生活のストレスがあって、峻別できるはずもない。
女とセックス出来ない状況は不自然で気が狂うに決まっているという考えは戦後にもあって南極一号を産んだ。そのほうが気が狂っている。
ポストモダンの性欲観ってああいうものなのかと感慨深かった。あんなのでロリコン漫画をどうこう言って、表現の自由がどうこういう根底にあんな人間観があるんだと思うとなにもかも虚しくなる。
そして性的な抑圧のどうでもいい俗説はともかく、政治的な抑圧の強さはどう転ぶのかわからない危うさがある。要は国際的に、人権的に正しいことよりも、いうことを公に禁じられたことをぶっちゃける、ズバリという式の放言、暴言がもてはやされ、マスコミに批判される。批判されるほど人気になる。それは石原などでうんざりするほど繰り返されたおなじみの政治的な人気取りのやり方で、言いたいことを言うには敗戦国では、この憲法では、ダメだという感じの右傾化や全体主義への流れがある。建前と本音が乖離している。
とはいえずっとこうだったので大丈夫なのかもしれない。
戦時中中国戦線に取材に行った文人に、君はどうやって性欲を処理しているかね、と聞いた哲学者を思い出した。