ポストアポカリプスの終わり

オカルト学院が面白かった。星の王子さまの台詞を嗤いながら涙を流すこずえに感動した。認知的不協和。
1999年にはオカルトの大ネタとしてのノストラダムスも終わった訳だけれども、ポストアポカリプスの物語も終わっている。さんざん見た未来地図とは何か。
ポストアポカリプス、黙示録以後、というジャンルは長い歴史を持つ。ビジュアルとしてはトゲ付き肩パットでヒャッハーってな感じで、マッドマックスや北斗の拳に由来する。
昭和の人間が未来を設定するととりあえず一回核戦争で文明を滅ぼしておく、という誘惑に負ける。もちろん滅亡抜きの未来観を提示した作品もあったけど。
未来少年コナンでは2008年7月に破滅の日が設定され、ナウシカでは火の7日間があった。ガンダムでさえさして必要とも思えない十億人規模の虐殺をアヴァンで毎回説明する。ヤマトは見たこと無いけど、ポストではなくプレなんだろう。滅亡まで後何日って毎回煽るので。エヴァンゲリオンは旧しか見てないが、2000年にセカンドインパクトが起きている。
何故未来への発想が滅亡込みかというと、たぶん実際に全面核戦争の恐怖があったからだ。キューバ危機や軍拡競争は一般人のあずかり知らないところで世界の破滅が起こりうると広く認知させた。
PKディックの「フォスター、お前死んでるところだぞ」はそんな偏執狂的な世界を描いている。
藤子不二雄の[ある日」という短編は、核戦争がいつでも起こりうる、伏線も何も無いものとして描かれる。
日本には核戦争後の世界を漫画で描くはだしのゲン以来の伝統がある。
ソ連が崩壊して冷戦構造が終わったことでいきなり世界が終わる規模の全面核戦争は起こりにくくなった。予言の自己成就を目指す宗教団体まで出た。

もう大きな物語はなく、滅亡させるかどうかもオプションで選べるとなると、語るべき内容って何だろう。どんな未来も選べるとき、描く未来は。
予言は外れたけど教祖様は信じたいという認知的不協和と言う言葉を読んで、本来の文脈と関係なくそんなことを考えていた。0年代のフィクションは、今まで通用した話が終わったことを知ってはいるけど認めていないような、そんな複雑な過程を経ているような感じがする。
日常性にこだわった描写の作品にも、ゲームとルールが強調されたフィクションにも、なにか共通するものがある気がする。
とりあえずオカルト学院は面白い。