アニメを脚本で語る限界

ストーリーは叙事詩、キャラクターやテーマは抒情詩で、二、三千年前からやっているんだ、やり尽くされている、と、あるアニメ監督はインタビューで語った。アニメが可能な時代なんだからアニメでしか出来ないことをやりたい、と。
たしかに彼の作品は音楽と映像の幸福な結婚が話題になる優れた作品が多いが、果たしてテーマやストーリーはと聞かれると解釈が難しい。人によって要約、着眼点が違う。
そういった作品をプロットや脚本から生まれたものと逆算して評価、批判するのはおかしい。
女がくねくね踊って音楽がかかる快楽に解釈枠組みを与えようとしたり、学園で戦争ごっこするためのコロコロ変わる言い訳を真に受けるのは多分違う。
脚本段階を経ず絵コンテから作られた可能性もある。その場合同じ作者でも脚本から作られたアニメとは変わってくるらしい。
脚本に還元不可能な質量性、アニメであることについて語るのは難しい。物語について語る伝統はあっても音楽や映像について語るのは極端に主観的になったり、衒学的になったり、枝葉の話になったりしてしまいがちだ。
アニメの質量性に注目する方法として、仮に実写化されたときに再現不能なもの、を想定するといいかもしれない。
ある少女漫画がドラマになったとき、漫画なら見過ごされたある設定が実写映像になると生々しすぎて不評だった。