福島第一原発観光地化計画と同人誌文化について

生きるか死ぬかという生活の切実さの中でアートという道楽に属すことへの憎しみはいやます。福島第一原発観光地化計画への反感は実際に人が死んでいることに対する軽さもあるだろう。そして何より言っているのが東とカオスラウンジだ。属人的に批判せざるを得ない。他の人が提案していたならまだ聞く気にもなっただろう。
2011年3月、地震津波でまだ死体が、ひょっとしたら生存者が埋まっている時に東浩紀はお抱えの芸術家梅ラボに震災をテーマにした絵を自社の壁に飾るために発注する。梅ラボは匿名掲示板からキャラを剽窃したコラージュ作品を納品する。カオスラウンジ問題の始まり。
卵白ラジオで解決案として提示された絵の売上の一部を震災に寄付する案を黒瀬は即座に半笑いで否定する。そのなかで掲示版の入り口を晒したことにたいして、作者の匿名性に対しては認め謝罪したが、匿名の作者性は決して認めない。
その後も彼らは決して寄付をしない。同じ会場で寄付を募っている他のアーティストにも協力しない。寄付じゃない形で震災にナントカカントカでなんたらかんたらをしたいと言っていた。
がんばろうニッポン(笑)という作品も話題になった。震災をテーマに何を作ってもいいといわれて、あのスローガンが気持ち悪いとどうしても言いたかったらしい。ぼくの周りのアーティストは震災について真剣に考えているひとなどいない、と話した後で、これも作品についての言説になるの?と聞いていた。
そのなかで批判は画像の利用に関して許可をとれという一点に絞られてくる。そしてどうやら彼らの依拠する東浩紀の同人誌文化の理解が根本的に間違っていることが明らかになる。
彼らは海賊版と二次創作を区別できない。同人誌文化の中でトレパク、デッドコピーが嫌われていることを知らなかった。
データベース要素の組み合わせで創作が出来るという思想は多くのトレパク作家に愛され、東が重用していた漫画家からもいくつもトレパクが見つかり、連載中止になる。東と社長と親しかったソフト会社原画家は3回めのトレパクが自社作品のアニメ放送直前に発覚する。
オタクが意識においてどう考えているかには興味が無い、というように同人文化が分かっていない。キャラを借り、世界観を借りるのだからせめて絵は自分で描かなきゃだめだという考え方がない。分からない。絵柄も画像そのものも同じに思っている。
ぼくらのやってることは同人と同じと黒瀬は言ったがもし同人だとしたらありえない。そして無断で非アートから引用してもいいというのはアートがずっとそうなので問題はアーティスト個々人に帰すことになる。もしアートだとしたら結局はカオスラウンジの人柄の問題だ。
東の発想は悪い意味でとても同人誌的だ。本さえ売れればなんでもいい。そしてJビレッジのようにすでに計画があるものの上に夢を上書きする。実在の人物を同性愛者という風に見て同人誌を描きましたという腐女子のようだ。
そして彼女たちはナマモノ同人誌では迷惑をかけないようにしているが、彼らは僕達の夢の方に合わせてくれとコミットする。しかし結局は本が売れればいいだけ。実現など考えてもいないだろう。この計画を何年も続けて本を売りイベントをして食っていく気まんまんで、福島第一原発観光地化計画で商標も取ろうとしていた。
廃炉作業も終わってないのに風化の心配、人の持ち物の上に青写真を描いて、人のリソースを空費させる。あげく文学とアートなんで社会科学は専門家に任すといいだす。
実現可能性がないというと思考実験だと言い空想的すぎるというと実際の計画だと鵺的な問答を繰り返す。
いつもそうだ。正しさを決めるのは言語ゲームでゲームのルールもゲームの中で決まるとばかりにヌルヌルとしたことを言い続ける。言葉をコンスタティブに取るとパフォーマティブに取ってくれと言い、逆にすると逆という。決定不能性の前にアンチを宙吊り。この種の欺瞞に満ちたニューアカ論法はいい加減にしてほしい。
クラスタの排他性と独善性は宗教団体にも似て対話を拒むのでおよそどんな公共性をもつ計画にも向いていない。
関わらない方がいいというのがここ数年で学んだことだ。